・七つの子諸説芬々

 「七つの子」 作詞 野口雨情 作曲 本居長世

 この曲がこれほどまでに広まったのは、 戦後、映画「二十四の瞳」の挿入歌に選ばれたことからだそうです。 →参照

 現在までその七つが「七歳」「七羽」のどちらかという議論を始めとして さまざまな解釈がなされています。曰く

・七歳説
 「子供と言えば七つ」 金田一晴彦氏
   当時は、娘と言えば十六歳で子供と言えば七つであった
   (本居長世童謡選集解説より)
 帯びとけ式を終えた子供の意
 当時長男が七つだった
 烏は七羽も子供を産まないが、七歳までなら生きる
 七羽ならば七つといわず七羽と言うはず

 などの説と共に、定本野口雨情の作者で雨情子息、雨情研究家の第一人者、野口存弥氏や 評論家長田暁二氏がこの説を押すため、現在もっとも有力な説。

・七羽説
 初出の『金の船』大正十年七月号の挿絵に七羽の子烏の絵がある
 野口雨情自身の『童謡と童心芸術』(大正十四年)の中に
  「〜向こうの山にたくさんの烏がいる〜」という気分をうたったのであります
  と書いてある。
   藤田圭雄氏(童謡の散歩道 より)

また、これに対して、古茂田信男氏は
 「たくさんの烏」との表現だけで、七歳とも七羽とも言っていない。
 ただし雨情は「たくさん」の意味を七つという言葉で表現した

としています。古茂田氏は雨情会の会長も務められましたが、現在、 雨情会の公式見解では、「どちらの解釈をしてもよい」ということに なっています。

これ以外にも
 烏とは炭鉱夫の隠語であり、その子供のことを歌った
   雨情の最期の弟子の一人スズキヘキから聞いた話 (永六輔氏)
 実家の裏の7本生えてる松の木に来た烏を見て作った (小松原優氏)

など賑やかなところです。

アメリカ人歌手のグレッグ・アーウィンはその詞を翻訳する時、 二つの解釈があることに戸惑った末、七歳でまだ独り立ちしない烏も なさけないので、七羽と解釈することにした。と言っています。

さて、ここまで読まれたみなさんも色々な考えをお持ちになったことと 思います。七歳説が有力なのは首をかしげてしまうところですが、 ここは、論点に戻り作家としての立場から考えてみようと思います。

この歌の原型は1907年(明治四十年)「朝花夜花」の詩集に載った 「山がらす」という詩です。

 烏なぜ泣く 烏は山に
 可愛七つの 子があれば

という見事な7775調の詩です。
声に出して読むと、そのリズム感をもっと感じてもらえると思います。
雨情はこの詩の音としてのリズムをとても大切にした詩人です。
雨情の詩は読む詩ではなく歌うための詞である由縁です。

さてここで七つを問題にする時、本来、論ずるべきは、七歳か七羽ではなく 何故、六つや五つではいけないかではないでしょうか?

前段から読まれてきた方には感じてもらえると思いますが、 なにも鳥類研究所にまで尋ねなくとも実際に七歳の烏を歌ったのでも 七羽の烏を歌ったのでもないことは明白です。

上の詞をローマ字であらわすと下のようになります。

 Ka RaSu
 Na ZeNaKu
 Ka RaSuHa
 Ya MaNi
 Ka Wai
 Na NatuNo
 Ko Ga
 A  reba

御覧の様に見事なまでに、頭の一音がア段の音で統一されています。 これにより、耳で聞いて、リズム感のある詞が生まれています。
ここで七つが六つだとしたら、どうでしょう。
例え6歳の子を間近にして、その子のことを歌ったとしても、 やはり詩人が詞にするときは七つにするのではないでしょうか。

古茂田氏が「七つの子 野口雨情 歌のふるさと」で次の様にも 書いています。

 「たくさん」を一定の数で表わすことは古くからおこなわれています。わらべ 唄や民謡その他の歌謡にはよくみられるところです。
 ねんねん寝た子に香箱七つ
 起きて泣く子に石七つ

 これなどたくさんという意味で、必ずしも香箱や石がそれぞれ七つということでは ないでしょうし・・・・

・・・「峠七坂七曲り」とか「浦は七浦」とか「七日七夜」とかいろいろな場合に よく使われています。いずれも数そのものより言葉の調子のよさを求めてのものです。

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頭韻を踏んだ例としては、やはり烏を歌った次のような歌も残されています。

「烏と南瓜」

 南瓜(かぼちゃ) 畑に 烏が来てる
 烏ァ 南瓜を ながめてる

 烏見てたりゃ 烏も見てる
 烏ァ 柿の木に 飛んでいった

 南瓜 叩いて 数えて みたりゃ
 烏ァちょろりと 見て啼いた

 (以下略)


七つでなく七羽にしなかったのは、やはり調子がよくないから ということで良いのではないでしょうか。

作品は作家の手から離れると一人歩きします。
中には珍解釈をするものまで現われ、上と同じように、 リズムを整えるための夕焼小焼や大寒小寒まで 解釈を始めてしまいます。
以前「こいのぼり」に関して新聞社から取材を受けました。
大きな真鯉は「おとうさん」ではないそうです。
参照 こいのぼり おおきなまごい 本当は子ども
その時にも答えましたが、作品は作品として、色んな方の振りかざす解釈に振り回されることなく 自分の受けたままの感動を大切にしていただければと思います。